「アート的」と「ビジネス的」

WEEKLY OCHIAI「〝集中力・ゾーン〟を考える」を見ていたら、落合さんがこんなことを言っていた。

何かを創り出した時に、まず自分が「おおっ」となる。(自己肯定がある)世に出したあと、自分より詳しくない他者に褒められても・・・もちろん嬉しいけど・・・

※僕の記憶によるものなので、言葉は合っていないです。

このパートで落合さん含む皆さんが言っていたのは以下のような話。

  • 僕らは他者からの承認が見えやすい世界に生きている(SNSのいいね!とか)
  • だから他者からの承認に意識が行きがち
  • でも何かを創り出すプロセスが大事
  • 本来はプロセスと他者の承認が結びついているべき(これこれこういうことした→結果、誰かに褒められた)
  • アーティストは自分がお客さん
  • 他者の承認の以前に自己肯定がある
  • 自己肯定の瞬間が楽しい・嬉しい

言及はなかったけど、僕はこの話は「アート的」なことについてだと理解した。

アート的とは?

ここからは僕の解釈。

「アート的」とは、他者の承認に関わらず、自分がいいと思う(偏狭な愛がある)ものを探究・追求すること。

だから他者の承認は嬉しいけど、それ以前に自己肯定がある。なんなら自己肯定の時点で嬉しい。

そういうものがアート的。

他者の承認のために何かを創るのはアート的じゃない。

「アート的」に対立するのは「ビジネス的」

では、アート的じゃないものはなんなのか。僕は「アート的」に対立する言葉を「ビジネス的」としてみたい。

ビジネス的はアート的の逆なので、他者の承認のために何かをする。ビジネスにおける他者の承認とは、つまり「売上」だ。(他者が商品・サービスを良いと思う≒承認するから、対価を支払う=売上が生まれる)

前提としてビジネスは営利目的。売上(他者からの承認)を上げ続ける必要がある。※正確には売上ではなく、利益

「アートは自己肯定があれば、売れなくてもいい」という見方はできるけど、ビジネスは売上(他者からの承認)がなくては立ち行かなくなってしまう。

「アート的」と「ビジネス的」は完全対立するのか

でも、一方で思うことがある。

「アート的」と「ビジネス的」は完全対立するのだろうか。

僕はこの問いの答えはNOだと思う。

現代、双方はますます重なり合って溶け合っている。

アート的なものを作って売上が上がることはもちろんあるし、ビジネス的なものにアート的なものが潜むこともある。

アート的なことに関わり続けるには

以前、僕はこう言った

エフェクチュエーション(手段ありき)あるいは無我夢中。

僕は予測不可能な世界において、目的設定をせずに「成長の実感」を得るには、この2つがkeywordになる気がしている。

アート的とは、自分がいいと思う(偏狭な愛がある)ものを探究・追求することだ。

無我夢中で探究して、「成長の実感」を得ることができたら、とても幸福度が高いと思う。

だから僕はアート的なことに関わり続けたい

でも、売上が全くないと生活が送れない。このジレンマを抱える人は多いはず。

僕は今、社会人10年目。「アート的」と「ビジネス的」の双方を理解して、意識的にバランスをとることが大事だと思っている。

そして、アート的なことに関わり続けるには、以下のような段階をつくるのが選択肢の1つだと思っている。

  1. ビジネス的なものに集中して利益の源泉をつくる
  2. 時間・資本を投資してアート的なものをつくる
  3. アート的なものの一部を利益に転換していく(ビジネス的なものとの両立)
  4. アート的なものだけで生計を立てる

※3の時、アート的なものは、あくまでアート的(自己肯定のためにつくる)であること。
※1,2,3,4としたけど、投資を受けていきなり4を目指す方法もある。

僕自身はまだ具体的な事例を作れていない。1の半ばといったところか。

でも、繰り返すけど感覚的にアート的とビジネス的はますます重なり合って溶け合っている気がする。

アート的とビジネス的、また考えてみたいと思う。

追記:チームラボ猪子さんの言葉を加えたい。

当時はアートを、何の意味もなく、稼いだカネでひたすらつくっていた時代だね。1円にもならず。(中略)わからないけど、そのころからアートをつくっていたわけです。当時は社会的にも無視されていたし、もちろん経済的にも無意味だったし、無価値だったし、でも、アートに意味があると思っていた。今は、儲りはしないけれど、機会は増えました。

出典:感動と物質は本質的には関係ないだから、物質から人類を解放したい (東洋経済オンライン)