かつて僕は恐怖を楽しさに転換していた

ストア哲学に触れつつ、批判される恐怖について書いた

思えば「戦わなくてはいけない敵」も、主に恐怖心のことだ。

恐怖。

恐いという感情。

最近の僕はこいつと戦っている。

20代前半の僕に恐いものなんてなかった。

失敗してもやり直せばいいと思っていたし、一か八かでやる気だったし、どこかでヒリヒリした状況を楽しんでいた。

でも、今は守るものが増えた。失敗の経験も増えて二の足を踏むことが多くなった。

年相応だと言われればそれまでだけど、正直ビビりながら生きているのは全然楽しくない。楽しくないのだ。

だから今一度、恐怖と向き合ってみたい。なんとなく感じているけど、ちゃんと向き合えば感じている恐怖なんて、大したことない気がしている

人事を尽くして天命を待つ

戦わなくてはいけない敵」について、自らこうまとめた。

・注目を集めることで、自分の弱さや至らなさを発見する(される)のが恐い。

・理想を追い求めて人とは違う道を歩み、抗っても、うまくいかない現実を知るのが恐い。

前者は端的に言うと「批判される恐怖」で、後者は「理想と現実を知る恐怖」だ。

後者の「うまくいかない現実」には、以下が含まれる。

  • 新規事業が失敗する恐怖
  • クライアントに契約を切られる恐怖
  • 稼げなくなる恐怖

(書いていて思ったけど、5年前の自分が今の自分を見たら、鼻で笑いそうなことだ。)

さて、ここで「迷いを断つためのストア哲学」からの引用だ。

ストア哲学は、実際には、感情を押し殺したり、隠したりすることではない。むしろ、感情の動きを認め、何がそれを引き起こすのかを考えて、自分自身のためになるように転換することである。

また、わたしたちにはコントロールできるもの、できないものがあるのをつねに忘れず、コントロールできるものに注力し、コントロールできないものには抵抗しないことでもある。

ね。なんとなくわかってきた。

「批判される恐怖」については、以下で書いた通り。

「汝の道を進め、そして人々をして語るに任せよ。」とストア哲学

「理想と現実を知る恐怖」については、新規事業の失敗も、クライアントの契約も、稼げるかどうかも、僕がコントロールできる部分とできない部分がある

できるだけのことをして、あとは運命に任せる。

つまり「人事を尽くして天命を待つ」ということだ。

僕は恐怖を楽しさに転換していた。

では、恐怖を認めた上で、どのようにしたら恐怖を自分自身のために転換できるのだろうか。

今思えば、かつての僕はこんな感覚だった気がする。

  • 他の人がしない挑戦をすることは楽しい。
  • 失敗するかしないかのヒリヒリした感じが楽しい。
  • 失敗しても注目を集められるからおいしい(楽しい)

そう。楽しかったんだよね。

僕は恐怖を楽しさに転換していた

でも今の僕に同じような感覚はない。

思えば独立してからの5年間で、本当につらい時期が何度もあった。おそらく恐怖に対する感覚の変化は、生き残るための防衛本能によるところが大きいと思う。

もともと攻めの感覚が強いから、守りに一気にふれている感じ。「恐いけど楽しい」から、単純に「恐い」になってる。

本当は、恐怖を知った上で攻めるのが本当の楽しさだと思う。

さて、長くなってしまったので、恐怖を自分自身のために転換する術については次回以降で。