あるがまま、自然体で生きる自由を望む。(東洋的な見方)

少年だった僕は「自由」になりたいと思っていた。

僕にとっての自由とは、誰にも指図されることなく、自分の思い通りに人生を歩むことで、純粋にそれができると思っていた。

時は経ち、32歳の僕は人との関わり合いにこそ人生があると学んだ。時間や場所に縛られず、誰からも指図をされずに自分の時間を歩む楽しさと同時に、孤独と葛藤もたくさん味わってきた。

「自由」を知る上で、鈴木 大拙 氏に学ぶことは多い。僕は「東洋的な見方」で自由に関する見識が広がった。

いわく、自由には「西洋的な自由」と「東洋的な自由」がある。西洋的な自由とは、フリーダム。つまり、束縛からの解放だ。

フリーダムが特徴的なのは、はじめに束縛(固執 / 執着 / 固定 / 強要 / 否定etc. )があることで、「自由になる」とはそこからの解放を意味している。

「東洋的な自由」とは鈴木 大拙 氏いわく「松は松であり、竹は竹であること。」だ。松は松として生まれてきて、竹になりたいとは思わない。竹も松になりたいとは思わない。「松は松で竹は竹」であり、それを区別しているのは人間の勝手だ。

これを僕なりに解釈すると、何かに執着することなく、あるがままでいること。それが東洋的な自由だ。

時間や場所に縛られるとか、家族や恋人に縛られるとか、そういう感覚以前の話。時間や場所、と言っている時点でもう囚われている(縛られている)

僕は何かに執着することなく、あるがまま、自然体で生きる自由を望む。つまりそれは東洋的な自由なんだと思う。