「幸福とは?」の問いについて考えた時、以下を一旦のまとめとした。
「自主的な目的設定」と「成長の実感」が安心につながり、その安心が幸福につながる。
このアイディアには納得していたのだけど、別の文献をいくつか読み進めたら、別角度からの視点を得た。
「自主的な目的設定」と書いたものの、現代の予測不可能な世界において、そもそも目的を設定すること自体が間違っているのでは?という視点だ。(この考えに至った背景は、別で詳しくまとめたいと思う。)
さて、幸福のために成長の実感を得たいものの、目的設定ができないとなると大変だ。
しかし、突拍子もないことを言っているわけじゃない。
カヤック柳澤さん×クラシコム青木さんの対談を読み、なぜ経営者は「精神性を深めたい」と思うのか?を書いたけど、よく考えると、精神性の深さは目的設定ができない。
わかったこととしては、どうやら「目的ありきで考える」には、限界がありそうだ。それに、どうやら現代は「目的設定ができないものの成長」が求められるような気がする。(この辺も別で詳しくまとめたい。)
さて、「目的ありき」に対立するのは、「手段ありき」だ。
「手段ありき」なんて行き当たりばったり感があるけど、実は起業家の理論として知られる『エフェクチュエーション』は何を隠そう手段ありきの理論だ。
さらに、目的があるの反対は無目的。
無目的なんて「成長の実感」と程遠い気がするけど、よく考えて。無我夢中で何かに没頭したあと、気づいたら何かが成長していた経験、思い返せば誰しもあるはずだ。
きっと成長すらも目的ではなく、単純に楽しいとか、そういう理由にならないような理由で、「我をな無くし、夢中になった」はず。
エフェクチュエーション(手段ありき)あるいは無我夢中。
僕は予測不可能な世界において、目的設定をせずに「成長の実感」を得るには、この2つがkeywordになる気がしている。