お店をOPENする直前。雨の金曜日の早朝にたたずんでいる。
“たたずんでいる”とは、比喩だ。
さて、昨夜、考えたことはこんなことだ。
記号(シンボル)とは、すなわち情報を凝縮したもの。記号であふれた都市で、スマホを肌身はなさない僕たちは、絶え間ない情報の受信を余儀無くされる。
江戸時代の人の1年分の情報量を、現代人は1日で受けるらしい。
これは、すなわち五条悟の無量空処的なものをくらっているということだ僕らは。
だからリトリート(逃避行)したくなる。
最近、友人たちからよく聞く「二拠点生活」もそうだし、キャンプやサーフィンもすこしその性格を帯びている。
小さなリトリートは、シーシャ・サウナ・読書・瞑想などなど(探せば他にもありそう)。
そして、もうひとつ。
結果的にリトリートできる方法がある。
それは、情報を発信することだ。
でも、僕が思う発信は反射神経的な上辺だけのものではない(というか、それでは領域外には逃げられない)。
ちゃんと編み、熟成させ、いろんな意味でスローなものだ(まだうまく言葉にできないけど)。
つまり、こちらも領域を展開する。
たとえば、このブログみたいなものだ(ドメイン残しておいてよかった)。
「いまは不完全。だが今はこれでいい。 もっと自由に、広げろ! 術式の解釈を!」
みたいな話だ。